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御調神楽・山崎泉さん

2016年3月17日

尾道市御調町には「磨き上げられた技術」と「ひたむきな信仰心」を備えた『御調神楽』があります。代表の山崎泉さんは「手草舞」「悪魔祓い」「折敷舞」「三恵比須」などの演目を考案し『御調神楽』を完成させました。山崎さんが守り続けてきた神楽への想いにふれることで、これからの御調の文化や芸能を再考できるかもしれません。

●山崎 泉さん インタビュー
神楽を始めたきっかけは何ですか?
子どもの頃から地域に神楽がありよく観ていました。綾目にもたくさん団体があったし、畑(はた・尾道市木ノ庄町)や僧殿(そうどの・府中市)にもありました。当時は備後神楽と言っていました。私は学校を卒業した10代の頃、お坊さんになる勉強をするか神楽の舞手になるか迷ったのですが、好きだった神楽をすることを選びました。当時、神楽の舞手というと女性にとてもモテる憧れの存在だったんですよ。(笑)

御調神楽について教えてください。
『御調神楽』という名は文化財の指定を受けた際に付けられたものです。33歳で府中の道下先生に弟子入りし、毎日のように訓練をしていました。せまい舞台で連続回転する「きりきり舞い」の稽古は四角い一升枡の上でやっていました。一人前になるのに15年くらいはかかりました。その頃同じやるなら認めてもらえるような神楽にしたいと思い、県に申請して昭和46年に無形民俗文化財に指定されました。後援会(会長 高山岩人氏)の支援もあり、ここまで続けられたと思っています。

今は綾目地区の神楽保存会で指導されているそうですね。
私は歳が歳なのでしんどいのですが、皆さん真面目にやってくださるので一生懸命ご指導するようにしています。時間はかかると思いますが、若い人たちがやってくれるというのは珍しいことです。後を継いでくれるというので喜んで行っています。

神楽を通して伝えたいものは何ですか?
神楽を通して『温故知新』の大切さを伝えたいと思い努めてきました。古い物事を大切にするからこそ今や未来を大切にできるものです。神楽は「神」「楽しむ」と書くように神様に楽しんでいただくものであると同時に、その神社の氏子にも喜んでもらうものです。今の時代は神に対する観念が薄れてきている気がして、とても寂しいです。私は常に感謝の気持ちをもって神楽を舞い、暮らしてきました。この年まで元気でいられたのは『感謝の心』の力もあるのではないでしょうか。

山崎先生からのメッセージ – 上川辺小学校 閉校記念誌 「川辺の風」より
江戸末期より、神楽は暮らしの中で生き、人々は神楽の笛太鼓、手拍子(鐘)の音に故郷のぬくもりを確かめ、五穀豊穣の祈りと感謝を捧げてきました。神楽を舞う際に身につける白衣は生まれたままの姿を表し、袴は七重のひざを八重に折るという、折り目正しくという意味があります。地元の上川辺小学校で昭和56年から26年間続けた子供神楽では、礼にはじまり礼に終わる神楽を舞うことは、日常ではあまり経験することのない集中力・継続力や礼節を学ぶことにもつながったのではないかと思います。子ども達はいろいろな行事に参加し、中でもみつぎの苑には16年間続けて訪問し、お年寄りから喜びと感動、感激とともに、涙ながらに「ありがたい。毎年楽しみにしている」と言葉を賜り、言葉にあらわすことができないほどの感動を覚えたことを、私は忘れる事はできません。子ども達にとっても特別な思い出となっているのではないでしょうか。私にこのような経験をさせてくれた、今まで指導した子ども達全員に、心からお礼を言います。ありがとう。みんなの心に、地域の人々のこころに、笛や太鼓、手拍子、白衣袴の姿がいつまでも思い出されますように。

profile
御調神楽伝承者
山崎 泉さん
大正12年(1923)2月20日 御調町生まれ
30代の頃から神楽の舞手として修練に励む。
昭和31年 広島県府中市の道下太郎氏に弟子入り。
昭和46年 御調神楽保存会結成。広島県無形民俗文化財に指定される。
昭和56年〜平成19年 地元の上川辺小学校で子供神楽の指導。
平成18年 長年の神楽継承の功績が認められ文部科
学大臣から地域文化功労者表彰を受ける。

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